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Extract of Journal of Urban Science  雑誌”都市科学”に以前掲載

海外の都市を観る  マドリッドの街角から 

<あまり知られざるマドリッド>

スペインと我が国との歴史的つながりの割には、広く知られているとは言い難い。今回他のヨーロッパ主要都市パリともロンドンとも異なった文化・歴史を持つマドリッドという都市にスポットをあててみたい。 

<生い立ちと横顔>

1561年以来の首都であるマドリッドは、元々は、アラブ人が、川のほとりに造った砦集落であるが、その後、ハプスブルグ家の王たちによって徐々に旧市街(アラブ諸国ではメジナなどと呼ばれ、私は、この響きが好きである)が、整備発展してゆき、ゴヤが優雅に描写している地区でもある。静寂そのものの石畳の袋小路、ふと上を見上げれば長い年月を経たものだけがもつなんとも言えないアンティック雰囲気の外壁、そこにさりげなく飾られた花、旧市街には、歴史を背景とした大人の成熟したムードが漂っていて、東京の下町との違いにふと気がつく。石材が使われていても、決して無機的な感覚はない。

さてそのマドリッドも、他のヨーロッパ先進工業都市同様、19世紀中頃の工業化によって、農村社会からの労働者人口の都市流入の結果、かつての旧市街では収容しきれず、郊外への拡張と相成り、周辺地域の衛星化へと進んでいった。20世紀初頭のマドリッド人口は、たった50万人であったが、現在は、都市圏としては400万人を数えるに至っている。

大都市圏という意味においては、都心部から半径50kmの範囲に及んでいる。といっても、日本と違って、それほど都市の集中化が極端に進んでいるとも思われず、まだまだキャパシティーに余裕が見られ、少し中心を離れれば、これから有効利用できるであろう計画区域、土地が多く見うけられる。一方、日本では、在日外国人から、過密化した住宅問題に関しての不満、指摘がしばしば、挙げられる。

現在、東京でも、環7内側での高度有効利用に関して、研究がなされているが、都心部が細分化されていて、再開発が妨げれていて、いっこうに改善の兆しが見えない。長期的ヴィジョンに立脚した都市政策、道路・下水道等社会資本の充実について、手遅れにならないうちに早急な審議が必要とされよう。付け加えて、かつての本田技研方式を見倣って、審議会の発想の活性化と、政治的確執は抜きにと、思う。

<建物・公園・広場

本題に戻って、スペイン国内比較においても、建築家ガウディ、画家ピカソ、ダリ、ミロなど多くのアーティストを輩出した、スペイン第2の都市バルセロナに比べ、マドリッドという都市は、ブルジョア・スノッブ的でない反面、バルセロナのもつ海のにおい、香りに欠けるためか、砂漠的で潤いがなく、おまけに、地理的文化的開放度が劣るせい(←本当はもう少し柔かに表現したいところだが)か、刺激的にいえば、どんくさい。とはいえ、そこは仮にも首都、事例をあげて考察をすれば、いろいろ再認識させられるものである。

まず、都市を構成する建築についていえば、100年単位の建物はざらであり(日本でも100年住宅をキャッチフレーズにしているところも出始めましたが)古い物を大切にする民衆の生活と建物の持つ歴史の重厚さが程よくマッチされ、各々が芸術性を帯びている。特に感じるのは、パリほどの法的規制はないかもしれないが、建物の高さと配色(日本の色権乱用に対して、色彩の秩序化)の調和である。

日本の都市では、平屋やら高層ビルが混在したり、都心の過疎化傾向が危惧されているのに比べ、彼の地では、現在は高層が増えつつあるものの、従来は概ね5階から8階ぐらいの建物が軒を連ねて並び、色もくすんだベージュとか煉瓦色とか灰褐色とかのシックなトーンが基調となっており、そこに日本でも需要が増えつつある丸瓦・平瓦がほどよく調和し、窓から眺めると、まったくもって絵になるのである。また、修復時においても、厳しいほどの調和を義務ずけられる地区も多い。

こういう環境の元、なるほど、近代、スペインから、枚挙のいとまがないほど芸術家・クリエーターを生み出したのもうなずける。日本の都市に欠けているのは、こうした調和による美的感覚なのかもしれない。ただ、こうした建物にオートロック式施錠を備えた建物が増えたのは、いただけない。

歴史・環境と対話する街造りの中で、よくいわれるのは、マドリッドのみならず、ヨーロッパの公園・広場の多さであろう。統計上の、日本の都市の一人当たりの緑地面積の貧困さに比べ、マドリッドにおいては、市民の散策の場、対話の広場として自然発生的に有効活用されている。バルセロナにガウディの作品で、グエル公園という有名な公園があるが、丘陵を自然破壊せず、そのまま自然との共存を念頭に設計され、モザイクタイルを散りばめたベンチのある広場も含め、設計思想が随所にあふれている。

メキシコ地震そして神戸震災という世紀のカタストロフィーをみるまでもなく、地震・火災の避難場所としても、更に公園・広場等の再検討が優先課題であろう。他山の石として改善すべしで、机上の空論でなく、現実に即した対応が肝心である。いつ我が身に降りかかるかもしれないのだから。

また、サラリーマン/OL のストレス解消の場、子供たちのコンクリートジャングルからの脱出の場、老人の憩い、くつろぎの場としても、見直したい。

補足として、スペインの街で、時に、パティオ(内庭と訳す場合が多い)を見かけるが、日本の庭がどちらかといえば閉鎖型なのに比べ、開放型・対話型といえる。

日本の反省とルックイースト

次に美しい街造りのうえから、昔から問題に思っている電柱追放についてかんがえたい。特に東京では、市街地から電柱をなくそうと”架空線地中化検討委員会”なる会合が開かれ、消防活動の障害になったり、歩く空間を狭める故、無くす政策を進めたいという趣旨であったが、一方、欧米の都市では、電気・電話の普及時から地中化率100%のようで、マドリッドにしろどこにしろ、いかにすっきりするか、当地を少しでも旅すると、直ぐ気がつく。まったく遅咲き我らが東京である。おまけに、電柱の存在を身にしみて感じておられるのは、ロケ現場探しに奔走する映画製作者たちであろう。欧米の人たちは、我が国を物まね国と捉えているようだが、残念ながら、こと電柱の地中化と、車の右側通行(もちろん英・アイルランド等少数例外国除く)は、未だである。下水道を利用した光ファイバーの高度利用ともからめ、先見の明をもって、名実ともに先進国の仲間入りしてもらいたいと思う。GNP だけが先進国のものさしではないのだから。東京を含め、日本の都市、美観を損なうものが、実に多い。たとえば、えてすると、けばけばしいネオンサイン、おびただしい数の看板、野暮ったい垂れ幕、張り紙の数々。広告戦略である差別化の手段とはいえ、そこには、秩序、管理、規制という枠組みがあってもと思う。ヨーロッパの諸都市は、それらが余り突出してなく、美観維持が保たれている。また、自販機が日本ほど普及していないのは、ある意味で不便とはいえ、良環境維持に貢献しているだろう。但し、日本の都市を観て、感心する点もある。それは、交通機関の清潔さである。この点、ルックイースト政策ではないが、海外も見習ったらいかがかと思う。

<街をそぞろ歩けば>

さて、街を歩きながら、ふと上を見上げれば、そこの道路名が書かれた可愛い手描きの絵タイル板が壁に貼られて、なんともほほえましい場面に出くわすことがある。金属プレートの都市に比して、味がある。又、その道路も、片側が偶数番地、反対側が奇数番地とわかりやすく、至極便利である。日本の郵便屋さんごくろんさんといいたい。

他に気がつく点といえば、日本ほど必要がないのか、又、水平思考なのか、歩道橋がほとんど見当たらないことで、歩行者またお年寄り、身障者のかたがたには、ありがたい。但し、信号は、赤青2色のみのたて式、若しくは、シルエット式で、見にくく、高さも少々低いという欠点がある。しかし、あちらでは、赤信号皆で渡れば恐くないではないが、赤でも平気で渡るのに出くわすことも日常茶飯である。これは、信号の改良というよりも、順法精神というかモラルの問題であろう。外国を旅する折りは、くれぐれも横断のときは、注意して頂きたい。

話は変わって、夜中に家路に着く途中、放水車に出会うことがある。さて何をするかと思って立ち止まると、手際よく放水しながら、道路の両脇に、ごみを寄せ集めながら、あるところまで流して、収集していた。こんなごみ処理の方法も、降雨量が少ないスペインだが、ユニークな光景であった。

さて、次に、人間が生活していく上で、必要不可欠なものであり、何でもないときよく見かけるが、いざというとき、なかなか見つからないトイレについて述べてみたい。公園か広場のトイレは、一見、メトロの入り口と勘違いしやすく、殆ど地下にあるのが特徴である。絵で示してある場合も多いが、女性用はセニョーラ、男性用はカバジェロスと書いてあり、特に女性用入り口には、金髪に染めた(日本のTVコマーシャルで、ブロンド碧眼のモデルがもてるのと同様、やはり古今東西スペイン人もあこがれている)市職員である小太りのおばさんが、でんと座っていて、利用料を払わざるをえないプレッシャーを感ずることがある。男性用でも払った記憶もあり、ゲームのようだった。町中では、日本の都市ほど公衆トイレは、多くなく、駅を除けば、無料の場所として、よく利用させていただいたのが、デパートである。プラス、町中どこにでもある”バール”(カフェテリアに似たもの)の地下(時にチップをおきましたが)。いまだに、すんなりしない慣習のひとつでもある。

あと、都市で生活している中で、コミュニケーションの手段として、誰も一度は利用するのが、公衆電話である。ボックス型と非ボックス型があるが、もちろんテレフォンカードかコインをいれる。かつては、店でかける場合に、そこで通貨コインでない特殊な電話用コインをお金と換えてからでないと使えない機器もあったのですが・・。

これはあくまでも、かつての話だが、電話敷設住宅のところに住んでない人が、用があって、電話をかけるため、外出しても、こわれていて機能を果たさない電話機が余りにも多く、愕然とすることが多々あった。現地の友人から聞いた話だが、単なる器物破損というより、どうも金銭ドロらしい。その点、東京は故障中は希だし、数も多く (現在では、携帯の普及に合わせて一時に比べれば激減ですけど)又、先進国では、諸物価と比較してまだ安い。といっても、統計上、東京、大阪は、世界でもダントツの物価高ワーストNo.1(今は為替の関係もあり、また 日本が失われた10数年の間に、外国の物価が上昇しましたので順位は落ちましたが)。欲を言えば、遠距離国内通話、国際電話料金 (←これらも、現在ではIP電話、ひかり電話などの普及によりかつてに比べれば夢のようなコストになりましたね)、そして言わずもがな 市内通話料金 を考慮してもらいたいと思うが、一般的に電話通信網の整備は、日本の都市のほうが進んでおり、ハードの面だけでなく、将来は、更にソフトのサービス面でのいっそうの充実をはかってもらいたいと同時に、内外価格差の是正を願う次第である。

最後のひとこと

これまで、様々な事例を手短に挙げてみたが、都市というものは、モダンで機能的ばかりが有るべき姿でなく、そこに生きている人間が主人公であるといくことを肝に銘じておく必要があると思う。