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〜〜〜 500年の時空を超えて 〜〜〜
1.マゼラン と エルカノ    2.歴史に学ぶ 支倉常長とスペイン  3.一口メモ

歴史に学ぶ マゼラン と エルカノ
マゼランのほうが遥かに認知度が高いが、史上初となる世界周航【1522年】を達成したのは、実はスペインのエルカノだった。 が更に細かく言えば、バスク人と言った方が正解かもしれない。この航海における功績により、地球の図に「Primus circumdedisti me (ラテン語で“我を一周せし最初の者”の意)」という文字を配した紋章がカルロス1世より与えられた。
マゼラン  エルカノ

 
マゼラン                  エルカノ


マゼラン、マゼランと聞くたび、スペルはどうやって書くのか、疑問に思っていた頃を思い出す。 ポルトガル語名(本名)はフェルナン・デ・マガリャンイス (Fernao de Magalhaes)、スペイン語(カスティーリャ語)名はフェルナンド・デ・マガリャネス(Fernando de Magallanes)。「マゼラン」は英語での綴りを基にした慣用表記で(発音はマゼランではなく「マジェラン」)。
1480年生。現ポルトガル出身で、最初の地球周航者と言われ、南米大陸の南端”マゼラン海峡”を発見しその名を残す。「地球は丸い」ことを実証したことで知られている。ポルトガルの国王には援助を断られ、 結果、スペインに赴き、スペイン人ベアトリスと結婚。 後、カルロス一世(後のカルル五世)に仕えた。1519年、5隻の船隊を率いて スペイン・セビリアを出発、南米沿岸を南下して、マゼラン海峡を発見し太平洋へ出た。のち、現在のグアム島に到着、次いでフィリピン・サマール群島南端に到着。マゼランはここで原住民に殺されたが、スペイン人、ファン・セバスチャン・デ・エルカノは、彼の志を継ぎ、航海を続行、船団のなかでただ1隻無事だった小帆船”ビクトリア”の船長となって、17人の生存者を励ましながら、スペインに帰国し人類初の世界一周航海を成就させた。
マゼランの目的は現在のインドネシアのモルッカ諸島でナツメグやコショウなどの香辛料を手に入れることで、内実は、肉の保存、薬として重宝する”富”を求める航海であった。
幾多の乗組員の反乱もあり、航海は苦難の連続、マール・パシフィコ(平和の海→太平洋)では島影ひとつ見えず、食料は底をつき、帆げたの牛革やネズミまで食べざるを得なかった。結果、ビタミンCの欠乏に因る壊血病に悩まされる羽目になった。フィリピンでの住民との戦いによりマゼランは命を落とし、エルカノが指揮を引き継ぎ、翌年スペインに帰り着く、足掛け4年の世界一周冒険の旅であった。 270人余の船員は18人に、5隻の船は1隻に、しかし、その一隻に積み込まれていた当初の目的である香辛料は、他の4隻の損失を補ってあまりある利益をもたらしたと言われている。

今は地図は誰でも手に入る。 かの時代は地図は当然ない。 ましてや21世紀の現代はGPSまで容易に準備できる時代に比し、 この先に何があるのかわからない状況で、西へ西へと向かっていた、また別の言い方をすれば、地の果てを目指した当時の冒険者の心境はいかばかりかと想う。
 でも、そこには 夢とロマンと富へのあくなき欲望が渦巻いていたんでしょうね。



歴史に学ぶ 支倉常長 と スペイン

  1613(慶長18)年、伊達政宗は宣教師のソテロとともに支倉常長をローマに送ることを命じた。一行は仙台領の月の浦(宮城県石巻市)から、太平洋・大西洋を日本人で初めて横断し、メキシコ、スペイン、ローマへと渡る。この大航海の目的はメキシコとの通商と宣教師の派遣をスペイン国王とローマ教皇に要請することであった。彼らはローマで熱狂的な歓迎を受け、教皇パウロ5世に謁見し、政宗の手紙を渡す。
 しかしこのころから日本では次第にキリシタン弾圧が厳しくなってきているという情報が、教皇のもとに届いていた。そのため常長たちの努力もむなしく、ほとんど成果を得られないままに帰国しなければならなくなる。しかも、彼らがようやく帰国した1620(元和6)年には、日本では全国的にキリスト教が禁止され、信者たちは次々と処刑されるという厳しい時代となっていたのである。
         

スペインでの 行程
1614.10. 5 サンルーカルに到着
1614.10.21 セヴィリアに到着
1614.10.27 セヴィリア市長と接見
1614.11.25 セヴィリア出発
1614.12.20 マドリッド到着
1615. 1.30 マドリッドでスペイン国王フェリペ3世に謁見を賜る
1615. 2. 4 宰相レルマ公を訪問
1615. 2. 5 マルガリータ王女を訪問
1615. 2.17 支倉常長,洗礼を受ける
1615. 8.22 マドリッド出発,夕刻アルカラ・デ・エナーレスに到着
1615. 9.30 サラゴサに到着
1615.10.3? バルセロナに到着,3〜4日滞在後,ローマに向かう

1614.10.5にスペインの地を踏んでからバルセロナを発つ1615.10.3まで、スペインには,約1年間滞在。 この間,常長は,異文化と真正面から対峙。
支倉常長のプレート
支倉常長の絵


支倉常長像 スペインの支倉常長像  支倉常長像
支倉常長一行



コリア・デル・リオの町並みコリア・デル・リオの町並み
最初に踏み入れた地が、サンルーカル。 そのサンルーカルとセビリアの間に、コリア・デル・リオの町があり、支倉常長の上陸を記念して,彼の銅像がグワダルキビル河の河川敷公園の真ん中にある。 びっくりしたのは、 コリア・デル・リオの市と言うか町のHPに 支倉常長のページがあったこと。

 元ミス・スペインは日本人?
以前、ミス・スペインに選ばれた女性は、ルーツを日本に持つと言われている。彼女の祖父は、セビリア近郊、コリア・デル・リオ 出身の、スアレス・ハポン さん (ハポンとは 日本の意)。
一説によると、ハポン姓を名乗る人たちは、伊達正宗の命を受けて派遣された、支倉常長率いる遣欧使節団の一行の末裔と言われている。 

{夢とロマンの歴史の1コマ}と呼ぶに値する記事が以前掲載された。 実は、少し大げさに言えば、死ぬ前に一度は訪れてみたいと思っている地がスペインにある。コリアデルリオ市だ。かつてJapon (日本)姓を持つミス・スペインが誕生し、スペインの雑誌にも大きく取り上げられ、一部の人の注目を集めた。その前からこの話は聞いていたが、その都度”本当かいな”と内心思っていた。
仙台藩主、伊達政宗の命を受け、支倉常長率いる「慶長遣欧使節団」(1613〜20)がスペイン国王に親書を手渡した史実は、教科書で目にされた方も多いと思う。 ※支倉が持ち帰った品々は2001年に歴史資料では初の国宝になったので、いつか対面してみたい。  しかし時代の皮肉か、交易を約する返書を得られず7年後帰国。スペインに渡った日本人約30人、乗船記録から約7人が帰国してないらしい。海への玄関口であるコリア市にその後 ハポン姓が現れ、現在同市には、その姓を持つ人の総数は648人。コリア市のエストレージャ教会のぼろぼろの洗礼台帳に、”1667年11月1日、フアン・ハポンの娘を洗礼”と記述。 司祭が「生の宝石」と呼ぶ洗礼台帳上の、最古のハポンらしい。貧しさもあって苗字が無かったが子の洗礼のため父親の苗字が必要になり祖国日本を名乗り始めたのではないかという説は、まことしやかであろう。現地に残った使節団の一員が祖国ハポンを名乗り始めたに違いないと、地元の郷土史家も言う。スペインにいた頃、私の耳にもこの”ロマン話”は伝わっていた。2003年に洗礼されたカルロス・ハポン・アルバレス君(当時2歳)が最も若いハポンとのこと。ハポンの子供に時に蒙古斑が見られるという話はかつて聞いたことがあるが、実際見たことがないのでなんともいえないが、地元では「お尻に咲いた花」というそうだ。見事な表現だと思う。日本で開催された愛知万博に合わせ、マゼランが世界一周を果たした帆船ビクトリア号が復元されスペインから日本へ。そして石巻(2005年5月)で、かつて支倉らをスペインに運んだサン・ファン・バゥティスタ号(やはり復元)と歴史的出会いを果たしたようだ。2004年末、コリア市にある、カフェテリア”Sendai”に、支倉家29代当主支倉哲男(当時87)さんから手紙と家系図が届く。愛知万博で両帆船が旧交を温める際に皆様と握手を交わしたいという趣旨の手紙だ。”貴スペインに使をなした侍の子孫”からの手紙をそのカフェで見たハポン姓の人たちが返事を書く。前述カルロスの父、J・カルロスは「苗字の由来を考えるとき、私たちが同じ祖先を持つことを誇りに感じます。」と。ハポンばかりが時に週末、あのカフェ”Sendai”に集まり、サッカー中継で盛り上がるという。 これこそ、歴史のトライアングルと言えるだろう。 
コリア市のカフェ”仙台”で、時にそこに集う、 歴史の末裔と共に ”オレー・オレオレオレー 〜”なんて、肩を組んで叫ぶのも乙ではないでしょうか。
因みに、コリア・デル・リオの町の公式ホームページにはスペイン語ではありますが ”ハポンさん”について”の ページがありました。

サン・フアン・バウティスタ号 帆船ビクトリア号
ガレオン船サン・フアン・バウティスタ号
帆船ビクトリア号(史上初めて世界一周した船)
帆船ビクトリア号復元船 東京お台場へ
世界でたった一隻しかない帆船ビクトリア号復元船


スペイン一口メモ:

・ローマのスペイン広場
スペイン広場(Piazza di Spagna)は、ローマにある有名な広場。映画「ローマの休日」 オードリー・ヘプバーン扮する王女がジェラートを食べたシーンでもおなじみの場所。広場の中央には、「バルカッチャの噴水」がある。広場からは、トリニタ・デイ・モンティ階段、通称スペイン階段が延び、トリニタ・ディ・モンティへと続く。この階段は、フランチェスコディサンクティスによるもの。 当初、フランスの外交官の寄付によって造られたものの、間近にあるスペイン大使館からこの名で呼ばれている。


・スペイン乗馬学校
世界最古と言われる ウィーンにある、スペイン乗馬学校。スペイン乗馬学校は世界で唯一、古典馬術を今日に伝えています。この高等馬術は、ルネサンス文化とともにウィーンにもたらされました。皇帝フェルディナント1世の息子マクシミリアン大公は、1562年頃からスペイン馬の優れた品種をオーストリアに取り入れ、気性の激しい馬たちを調教するため、1572年に作った。